昭和四十三年六月二日 朝の御理解


信心乃心得 一、障子一重がままならぬ人の身ぞ


 御教えに「障子一重がままならぬ人の身ぞ」と教えておられます。障子一重がままならぬ人の身ぞと、ですから、どういうことにならなければならんかと。
 御理解第二十二節に「天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ」と〔あります〕。私共人間が、障子一重がままならぬということに反して、天地金乃神といえば天地を一目に見ておるぞと、ここのところを分からしてもらわなければならないですね。
 障子一重がままならぬ人の身ぞとそう教えておられます、ね。御神訓に。そこです。そんなら障子一重がままならぬ人の身であるということが実際に分かります。自分にできるということが何にもないということが分かります。障子一重向こうではどういうことが起こっておるか分からない。それどころか、障子の内のことだって実際には分からんのです。言わば、自分の力では何にも出来ないということも分かる。そこで、その分かっただけではいかん。障子一重がままならぬ人の身であるということが分かっただけではいけん。
 そこで、御理解二十二節には「天地金乃神といえば天地一目に見ておるぞ」。私共は障子一重が分からぬ。天地の親神様は天地を一目に見ておる。そこに、天地の親神様のおかげをいよいよ頂こうという気にならなければおかげは受けられぬのでございます。
 神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。これは、天地の親神様は、障子一重がままならぬ人の身と言うことが分かろうが分かるまいが、なべて人間氏子の上におかげは平等に下さってあると、こういわれる。
 受け物が悪ければおかげが漏ると仰るのでございますから、ここで分からしてもらうことは、これはどうでも受け物を作らなければならんと言うことが分かる。
 そこで、どういうような在り方にならして頂き、信心さしてもろたらおかげが受けられるかということを、次に、神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。天地を一目に見てござるということは、しかも、世界中の氏子と仰る。これは人間だけのことじゃない。生きとし生けるものすべてのものの上にお恵み下さってある。人間氏子の上にも平等におかげを下さってある。そういうおかげを受け止めさせて頂くためには、御神徳を受けなければならないということをここに教えておられます。
 それには、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬと仰ってあります。ままよと言う事。ままよとは死んでもままよのことぞと、仰っておられます。一生懸命と言うことでしょうねえ。
 この御神訓と、この御理解を頂いただけでも金光様の御信心が大体見当がつくですねえ。確かにもう、そのものズバリに教えておられる。人間の力で何が出来るか、人間、障子一重向こうですらが分からんのが人間の実態ではないか。それが本当の姿ではないか。
 けれども、お互いが、幸せになりたい、おかげを頂きたいという願いはみんな持っておる訳です。だから結局、信心はね、分かっただけではいけないということが分かる。もっとすばらしい、いろんなことが分からしてくださるんですね。 所謂、障子一重がままならぬ人の身であることを分からして下さった。分かったからそんならおかげをいただけるのじゃない。いよいよ人間の知恵やら力やら〔では〕、どうにも出来ないこと、所謂人間の無力さ加減というのを分からしてもろうてです。絶対の力、天地を一目に見てござるというほどしの神様にお縋りするより他に手はない。
 そこで、そのおかげを受けるためには、どういうことになってくるか。それには天地の徳を受けよと、こう仰る。天地の徳を受けるためには、いよいよままよという心になれよ。ままよとは死んでもままよということ。ここでは、死んでもままよのことぞと言う風に教えておられますが、大変厳しいですねぇ。そげんな一生懸命にゃなりきらん。ここはそうではないのです。これは任せるということです。 昨夜、お祭りの、皆さんが帰られた後、十二時頃からでしたでしょうか。御初穂の整理をしておりました。二番目の娘が手伝ってくれましたから、ここで二人で御初穂の整理をさせて頂きながら、話すことです。「こげな有難い神様はござらん」、また「この神様の御信心を頂けば、神様のいうことを聞いておけば、こげん楽なことにね」という。ほんなこっですもんね、神様の仰せ通りに仕ってさえおれば、こんなに楽なことはないとこういうのです。
 これは、私の言うこと。その子供の言うこと。そこには、開きはありましょうけれども、子供はこどもなりに御信心を頂いて、しかも、御神意のままに動こうと。一事が万事に神様任せの生き方にならして頂こうと、こう努力しておる。この努力さえしとればこんな楽なことはない。こんな有難いことはないのに、どうしてみんなここの所がわかんなさらんじゃろうかと。(笑)そこのところの精進をしようとしない。
 六月一日、所謂、月のはじめの月次祭。これは私が言うておる。「八時の御祈念じゃから、七時半までには出て来なさい。それ前にお届けをさして頂いて、そしてゆっくりお祭りを拝ましてもらわな。例えば、この一言だけでもみんなが実行でけんのだから、楽になれないはずだねぇ」と言うてから、話したことでした。
 楽になるということを、所謂、障子一重がままならぬということが分かりがら、そんならどうなからなければならないかということをここで教えられるのに、それを行じようとしなければ、守ろうともしない。それでは、いつまでたっても、楽にはなれない。
 そげん難かしい事じゃないですよ。そりゃ、忙しかと、一寸心掛ければ誰でもできること。本当にその、ままになろうとする焦点が信心によっておかげを頂こう。お徳を受けなければ、確かに人間は幸せにはなれないのだ。と言うことを分かっているようであって、分かっていないと言わなければ仕方がない。
 難しいことでもない事を守ろうとしない、行じようともしない。神様のいわれる通りのことをしとけば、こげん楽なことはない。しかも、神様ちゃ、信心ちゃこげん有難いことはないというて親子が話したように、そういう話合いでも出来れるようなおかげが受けられるのだ。みんなが。
 これは、例えば、私の子供であっても、それを行じなかったら、やっぱ信心は難しいとか、悩みとか苦しみと同じこと。どんなに日参り、夜参りさして頂いとっても、私のいうことを聞かなかったら同じ事。分かっただけでは。    
 お互いが、やはり立身出世をしたい。財産も作りたい。けれども、立身出世をした人の姿を見てみるがいい。本当に財産を作った人の本当の姿というものを見てみるがいい。あれで不安もなければ心配もない。本当にあれだけの財産をもった人としての値打ちのある生活をしておるだろうか。
 昨日、福岡からの実況放送だったんでしょうかね。テレビで、コロンビア歌の歌祭りか、あんなのがあっておりました。村田英雄ですかね、唐津かなんかの人らしいですね。あの人が歌っておるのを丁度見よった。こりゃもう、本当に、九州の人ですから、ここには両親も来ておりますちいうておりましたが、それこそ郷里に錦を飾っておる訳ですねぇ。今朝私は、あの、御神前に出らしていただいたら、丁度、昨日テレビで見せて頂いたその村田英雄さんが華やかな舞台着を着ておる。ところが、後ろにね、丁度尺八の、虚無僧が後ろにさすように、後ろにこれ位ばっかりのものを指しておる。何かと思ったら、小さい小さい傘をさしておる。これはテレビじゃない私の御心眼にですね。
 そらもう、あゝいう人気歌手になりますと、お金も沢山取れることでしょう。それこそ、大向こうからワ-ッと歓声が上がるほどに皆に騒がれる。これは村田英雄だけじゃありますまいけれども、あゝいう人気歌手にでもなると、たくさんの人からやんや言われるように、まぁ、うらやましいばかりの生活も、また名声を博することができる訳なんです。 ところが、そんなら傘をさしているのは、小さい傘。これでは、日傘にもならなければ、雨傘にもならない。さあ、いよいよ雨が降ってきた、風が吹いてきたと言うたらどうしようかと。今は人気が好調だけれども、人気が落ちたらどうなるだろうか。そん為には、ちった金を貯めとかにゃと、こりゃまあ、私が考えるとですよ。ね、なら人気歌手なんかがそう思いよるじゃろうと〔こう思う〕。
 もうこういう人気商売なんかというのは、人気が落ちたらそれまでなんです。もうそれこそ、人がいくらワぁ-ワぁ-言よっても、唾も引っかけんようになります。それを知ってる訳です。今こそ、皆がワぁ-ワぁ-言うてくれてるけれども、お金もたくさん取りよるけれども、何時この人気が落ちるやらわからんのである。そのためには、今少し頑張ると、まぁ心掛けのよい人は金でも貯める訳でしょうけれども、その貯めたお金とてもです、はたして安心の出来れる財産になるかどうか、実に心もとないこと。それで立身出世をしたい、お金も貯めたい。 いわゆる立身出世をしてみて、例えて言うなら、ね。お金を貯めてみて、果たしてどれほどの生活ができておるか。どれだけ喜びの生活が、安心の生活ができておるか。
 もうこれだけ出来たから大丈夫だと、出来て思える人があるじゃろうか。限りがない。そして不安である。これを子供に残しても、さあ子供がこれを維持しきるだろうか。不安は限りがない。
 そういうような世の中であり、それが人間の本当の姿である。だから、そういうような、例えば、商売が繁盛することのためにとか、立身出世をすることだけのためにとか〔に〕血道をあげるというのではなくてです。確かに私どもがです。御教え下さるように、障子一重がままならぬ人の身であると、例えば教えて下さった。そして、分かれば分かるほど、成程、そのように、言うなら無力なものである。そんなにはかないのが人間の本当の姿であるとわかったら次には、どうあらねばならないかと、さまざまな御教えを、御理解をもって教えて下さるが、中に例えば、そんならどうあらなければいけないか。人間は障子一重がままならない身であるけれども、分からんのだけれども、天地金乃神と言えば天地を一目に見ておるぞと、こういわれる。そういう神様が、ここにござるのであり、それに縁を頂いたのであり、そこに親と子としての名乗りを、お互いあげたのであるから、その神様の、親神様の心を知り、お心を悟らしてもらい、そのお心任せの生活をさせて頂くということが、いかに楽なことか。こんなに有難いことはない。こんなに楽なことはない。 それは、徳を受けておると思われない、私の二番目の娘が言うておることがそれなんだ。「本当に神様任せになっとけば、お父さんこんなに楽なことはない、こんなに有難いのに・・・。わからん私でさえ、それを感じるのに・・・」。さあ、信心いただいとっても、その有難いものを、楽なことを感じきっていないという人がたくさんあるということは、まぁどうしたことじゃろうか。そこが、我情が我欲が邪魔するのである。まあだ自分が少しでもできるように思うておるのである。我で生きようとしておるのである。
 しかも、その神様は、信心があろうがなかろうが、総べての氏子の上にです、平等におかげを授けて下さるという。その平等のおかげというのは、もう、それこそ降る様なおかげである。地下から湧くようなおかげである。
 障子一重がままならぬ私共ではあるけれどもです。そこに安心して、喜び一杯で生活していけれるおかげを、神様は下さってあるのだけれども、それをよう頂かん、所謂、受け物が悪いから、それが全部漏れていってしまっておる。
 そこで、そういう降るような、湧くようなおかげをみんなに下さっておるところのおかげ。あれはもう、親先生だけの専売特許と言うもんじゃなくてです。こりゃ親先生だけが受けなさるというのじゃなくてです。みんながおかげが受けられる。そのおかげを受け止める為にはです。神の徳を十分に受けようと思えば、神の徳、御神徳を受けようと思えば、ままよという心にならなければならない。ままよとは死んでもままよのことぞ。
 ここでは、死んでもままよと言うと、いかにも厳しいごとあるけれども、実を言うたら、厳しいことじゃない。お任せをするということなんだ。商売人で言うなら、親先生が右と仰るから、例えて言うなら、損とか得とか言うことを度外視してと言う意味なんです。
 只、神様の仰せ通りに仕りますという、そういう素直な心を頂くということである。そこには神様任せになっておるということが、この様にも楽なことか、このようにも又、有難いことか。そういうおかげを頂かしてもらい、そういう実感の中に、いよいよ神徳を受けていくところの修行が積み重ねられていく。
 今日は、私、皆さんにどのような御理解聞いて頂こうかと思うた。只、御心眼に頂いた、村田英雄の後ろに傘をさしておるところ。これはどういう御理解であるか分からなかった。そこで、この教典を開かせて頂いたら、御神訓「障子一重がままならぬ人の身ぞ」ということを頂いた。
 これはもう、聞けば聞くほど、分かれば分かる程人間障子一重がままならぬ人の身であると、言うことが分かった。ところが、さぁ、分かっただけではおかげ頂かれんから、神様はどういうように、障子一重がままならぬ程の、言わば何にもできない私共でございますから、その私共がおかげを頂かして頂く為には、どういう信心させて頂いたらおかげを受けられるであろうか。どういう風にそこを御理解して下さってあるだろうかと思うて開かせて頂いたら、御理解二十二節を頂いた。
 だから、ここで極まった。おかげはこれ何だ。分かっただけじゃいかん。だから、この御理解。所謂、障子一重がままならぬ人の身ではあるけれども、私共を、天地を一目に見てござる。言わばすべてのことが自由になりなさる神様を、私共はここに頂かなければならない。
 そこには、親の言われる通りのことを、右だ、左だと言われるままに生活させて頂くという生活。所謂、ままよという生活。立身出世でもなからなければ、財産作りでもない。そこに、言わば神の徳を受けていくことの出来れる、所謂、障子一重がままならぬ。障子一重どころか天地を自由にするような力というか、そういう働きをですら、受けることが出来る私たちなのですから。
 お互いが、楽になりたい楽になりたいと思うて、一生懸命がまだす。それこそ、人を押し退けてからでも、言わば、楽になろうと一生懸命になる。そんなら、そげんしてから貯めた、財産を作った人がはたして楽かどうかということ。ここを先ずわからにゃいけん。しかも、それは、自分は安気安穏というか、贅沢のし放題というか。それが出来ようけれどもです、そんなら果たして、それだけで安心かと、もうこれだけの物つくっといたから、子も孫も大丈夫という、その大丈夫ということすらが分からんのです。
 信心して身に徳を受けていけば、その徳はあの世にも持って行かれる。この世にも残しておけるという、そういうものであって初めて安心ができる。あの世にも持っていけ、この世にも残しておけれるというもの。それは、御神徳だけである。その御神徳を受けさせて頂く為に、私どもは信心の稽古をさせて頂いておる。
 その信心の稽古をさせて頂きながら、楽ではない。それは、死んでもままよという事にならんから、何時までも十二分の徳が受けられんのである。死んでもままよということは厳しいような事ですけれども、それは、神様任せになると言うことである。神様任せになっとれば楽である。と言うように頂くのです。
 私共が障子一重がままならぬ人の身であるということが分かっただけではなぁ-んもならん。これはこのみ教えだけではありません。どのようにすばらしい御理解を頂いても、それが分かっただけではなぁ-んにもなりません。それを身をもって行じなければ、ね、自分のものにはなりません。
 障子一重がままならぬ人の身であります。けれども、私共は天地を一目に見てござる、言うなら、天地を自由にしてくださる神様を頂いておる。ですから、それはもう、しかも、そこを親子だというて下さるのですから、言うなら、天地が自由になるということでもありゃ、障子一重が、言わば、ままならんのじゃなくて、自由自在になるということも言える訳なんです。この神様を頂いておけば。親のものは子のもん、子のものは親のものということになって来れば。そこに、それだけの神様の御神力、所謂、御神徳が受けられなければならん。御神徳を受けるためにはままよという心を出せよと仰る。そのままよという心を出すことが、見易いことだけれども難しい。そこに、お互い修行が必要なのです。
 本気で修行が出けておる時にはどのようなことでも、それこそ腹が決まる。親先生任せになれる。まぁだ、障子一重がままならぬ、できると思うとる。今迄は、なかなか親先生任せになれない。自分のこげんしてください、あげんしてくださいばっかり願っておる。なかなか、任せに成りきらん。それでは何時までたっても楽なというおかげにならん。有難いということになってこない。どうぞ、この御神訓。障子一重がままならぬ人の身ぞという、その御神訓と二十二節の御理解を併せてもう一遍、よくよく頂かれてお道の信心はここのところが分かり、そして、分かったらそれをどういう風にあったらおかげが頂けるかということをですね、説いてあるわけでございますから、そこんところを本気で分からしてもらおう、行じさしてもらおうという願いを持たなければ、おかげは受けられません。見易い見易いことから、まず手始めに、ね。「はい、右がよかばい」と言われたら、右。「左がよかばい」と言われたら、左。「さぁ、月次祭だん、お祭りの始まる前にお届けぐらいできるごとしてから参ってこい」と言われたら、「はい」という気になることよ。御理解だけ間に合えばよか。もうお祭り半ばでんよか。これでは何時までたってもおかげは受けられん。たったそのくらいのことからおかげは受けられん。
 行じようと思えば行じれれる簡単なことから行じて行けばです、成程そこにはそうしなければ頂けない有難さというものがあるのだ。
 それでまた、子供たちに話したんですがね。私がこんなに言よるとは、本当に、月並祭なら月並祭にね、昨夜の。沢山の人を参ってこらせようとして言よるとでもなからなければ、皆に時間体を励行させようというだけのこっちゃない。今あんたが言うごたる、そげなおかげを頂いてもらいたいばっかりに、こげんして言よるとばってんみんな分からんというて話したことです。
 そこのところを、素直に素直に頂いていかなければ、何時までたっても御神徳にふれることはできません。十二分の徳を受けることはできません。
 そして初めて、言わば、それから立身出世でもいいのです。それから財産作りでもいいのです。それ前に立身出世したところで、そのことが分かる前に財産を作ったところでその財産はかえって心配の種。これはもう、間違いがない。ですから、そういうことよりか、先ず、先決の問題として、そういう信心を本当に分からして頂くということが先じゃないでしょうかね。どうぞ。